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経世済民と富国強兵の対立

経世済民 ①
天保の飢饉後に生まれた武士の生活・民と共に困窮を越える為に作った。
徳川幕府の小田原藩主大久保忠真が二宮尊徳の改革案の『富国安民』論を採用し実施した理論である。
明治元年からも『富国安民』論を採用し経済・政治の基本とした。
『富国安民』は『経世済民』と同義語で『世を修め、民を済う』である。
国家形成で政治・経済・統治・行政の社会を作る事で有る。
明治元年以降明治天皇、三条実美、西郷隆盛達が支持した。権力の中枢で有った。
この国家形成で『経世済民』は現代でも経済・統治・行政の基本と成る。
しかし、この史実を歴史学者は無視している。教科書にも載らない。
明治6年以降に国家形成が『富国強兵』に変わり大久保利通と岩倉具視達が出現し
彼らの歴史が明治と成ってしまった。
近現代の歴史で教育書にも掲載され捏造の歴史が蔓延っている。


富国安民!! 経世済民とは ②                                    明治維新の歴史では明治4年4月廃藩置県が実行された。幕藩体制が崩壊し、藩に属していたていた旧士族達とその家族に生活の困窮を生じさせ、政治・社会的に反発を増大させた。一方近代化推進の責任者は井上馨と大久保利通である。この事態を知った 西郷隆盛、江藤新平、大隈重信達の明治政府は旧武士達の救済という目的で士族授産の開墾事業を全国各地に奨励をした。
例として挙げれば相馬中村藩の開墾事業。西郷か相馬中村藩から嘆願を受け、渋沢栄一に日記にも書いて有る西郷隆盛と渋沢栄一のやり取り後に渋沢栄一が実施した史実。ここでは興国安民と成っている。NHK大河ドラマでは消えていた史実。  底本『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社,1968.11) P677-685   明治6年の富国強兵を採用した大久保利通、 岩倉具視と富国安民=経世済民と対立することになる。


富国安民!! 経世済民とは ③
明治時代に入り、明治天皇は五箇条の御誓文を発した。荒廃した福島県に対して秩禄を得る為に土地の開墾を奨励した。史実は明治5年10月に県令安場保和参事山吉盛典より該原野開拓方法承調べ井上大蔵大輔へ上申其の筋の許可を得て明治6年より開墾に着手・・・と(牛庭原開墾百年の歩みに前書きは大久保利謙氏) 
井上大蔵大輔は井上馨。其の筋の許可は明治天皇、三条実美、参議西郷隆盛、大隈重信、江藤新平、板垣退助達である。明治政府の国策第一号の史実。この史実は現在歴史から消滅したままである。


渋沢栄一の日記で井上候と私どもは財政改革を行うにあたり、興国安民を廃止しようとの議が有った。これを聞きつけた相馬藩(相馬中村藩)では藩の消長関する由々敷一大事だと言うので富田久助、志賀直道の両人を出京せしめ、両人は西郷参議に面接し、財政改革を行ってを行っても、同藩の興国安民法ばかりは御廃止にならぬやうにと具に頼み込んだものである。・・・「一国の興国安民法を如何にすべきか就いての御賢慮なきは近頃以て其意を得ぬ次第、本末顛倒の甚しきものである」と切論いたすと、西郷公は之に対し別に何とも云わず黙々として茅屋を辞し帰られてしまった。兎に角、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして毫も虚飾の無かった御人物は西郷公で、実に恐れ入ったものである。底本『渋沢栄一伝記資料』別巻第6 (渋沢青淵記念財団竜門社 1968.11) P677-685


伊東佑享海軍元帥回顧談によると 「西郷の乱」の発動の原因と動機について、実は重大なる真相を明かしていると思われる。大久保や山縣有朋など維新政府高官達は栄耀栄華の立場を手に入れたことで、月日が経つごとに派閥政治と強権政治、華美狂乱が目に余ってきた。反対にその明治維新にすべてを賭けて戦った心ある一般の武家・武士達一般庶民は、秩序の崩壊に途方に暮れ、経済的にも困窮に端いでいた。「ご維新の初志」を忘れ、国民から離れて腐敗してしまった維新政府の有様を、西郷はこれを看過でなかったのである。幕藩体制を打倒した明治維新の本旨は、政府高官の権力乱用と腐敗横行の世の中にしたり、私利私欲の実現にあらず、国家国民の生活、経世済民(経済)が当たり前であることを直訴するため薩摩を出立したのであった。しかし、徳川将軍家に代って今や権力の魔力と快感に酔いしれた維新政府の高官達には、慈悲と至誠に溢れ高潔の巨人であった西郷は「眩しすぎて不都合な存在」だったのであろう。
こうして、天皇制のもとで800年近い老練な武家社会が保ってきた特有のアジア的・家族的な空気の統治。西郷の『敬天愛人』に象徴される、陽明学<最高の心/素心を押し立てた至る良知、断固たる行動の教え>や座禅の修行など、慈愛で゛包む王道と万物一体の「仁」の政治。その寛容と誠意から発する強かな政治は影を潜めた。
代りに、日本国の統治に歴史・経験の浅い新しい統治者たちは明治維新と西南戦争の勝利に続く日清戦争の勝利、日露戦争の勝利という『勝利の豊穣』を満喫した。そして、その「猛りと気合」によって欧米かぶれの覇道の政治、力のマネージメントを獲得したのかも知れない。この戦勝体験と国家経営の行きつくところに、第2次世界大戦の大敗が待っていたと言えよう。
もし、そうだとすれば、過ちの歴史を繰り返さない為に、明治維新以降のわが国社会の光と影を検証し、昭和天皇の王道の力でも止められなかった日本の政治に潜む歯止めの効かない危険なサガ(性質)と傾向を常に警戒して行かなくてばならない。